子宮内胎児死亡❸ー死産から娘とのお別れまでー

20代半ば、初めての妊娠で、26週子宮内胎児死亡。誘発分娩による死産となりました。

子宮内胎児死亡❶ー妊娠判明からお腹の張りの自覚までー   はこちら。

子宮内胎児死亡❷ーお腹の張りの自覚から胎児死亡判明までー  はこちら。

総合病院で出産へ 誘発分娩

子宮内胎児死亡が分かり、その後すぐに大きな病院に入院になりました。

産婦人科、もちろん妊婦さんや、産後のお母さんたちがいます。
誰も、私のお腹を見ても、このお腹の中の赤ちゃんが亡くなっているとは思わないでしょう。

子宮口を拡げる処置等始める前に、もう一度お腹の中の娘の状態を確認するためにエコーをしました。
やはり動かない娘の心臓を見ると、またいろんな感情が溢れてきます。

胎児死亡をもう一度確認し、誘発分娩の準備が始まりました。

子宮口を拡げる前処置

子宮内胎児死亡の為、陣痛を薬で起こしての出産になりますが、誘発前、子宮口はしっかりと閉じ、子宮頸管長もしっかりありました。

後に妊娠出産をした私が振り返れば、おかしかったとわかる、あのムクムクと湧いてきてギューっと硬くなるお腹の張り。

そんな張りがよくあっても、子宮頸管長が短くなったりという症状として出ないことがあるのだということです。
張りについては受診時に相談していましたが、痛みや出血等の症状がなく、エコーで見える範囲で異常がなければ、一般的な回答だけで様子を見ることになってしまいます。
エコーで診るだけでは、異常の発見はなかなか難しいということなのでしょう。

初めての出産で、子宮口はかたく狭いこともあり、子宮頸管拡張材・子宮頚管熟化材(ラミナリア・ダイラパン等)の挿入は、激痛でした。
看護師さんから事前に、かわいそうだけど…痛いよ。 と聞かされていた為、覚悟をして声を出さないようにしていましたが、声にもならないような声が漏れ出るような痛み。(大きく個人差があるそう。)

後に、流産手術や次男の計画出産で2回前処置はしましたが、初めての子宮頸管拡張材挿入は別格でした。
今でも思い出したくない。
まだお腹にいるはずで、こんなことをしてはいけない時期に、赤ちゃんを出すべく物を入れてこじ開けて…ということをしていることにもすごくギャップを感じて、精神的な痛みが強かったのかもしれません。

病室に声をかけられ、処置を待つ待合では、赤ちゃんを抱いた産後のお母さんもいます。
仕方のないことだけれど、当事者からすればその状況もとても辛い。
処置の痛みに耐えても、陣痛やお産の痛みに耐えても、産まれた我が子と一緒に生きていくことはできない。

何本も何本も拡張剤を追加し、その後はバルーンも挿入し、陣痛促進剤でどんどん陣痛をつけていきました。
やはり初産、なかなか子宮口も開かず、陣痛促進剤MAX量まで投与され、痛みはありながら、病院の定時までしか促進剤は入れられず、17時頃から翌日に持ち越し…。
入院中色々調べていると、子宮内で亡くなってしまった赤ちゃんは、羊水による浸潤や、自分の体を溶かそうとすることで皮膚が軟らかくなってきてしまうということで、早く、綺麗な状態で産んであげたいのに と焦る気持ちもありました。

陣痛促進剤で出産

入院から3日目の夕方、やっと産まれました。

3回の出産を経験していますが、振り返ってみて、この初めてのお産がダントツにしんどかった。

促進剤で陣痛をつけている時には、ものすごい吐き気で吐き、ものすごく暑いような寒いような、汗なのか冷や汗なのか分からない状態で毛布にくるまり。

分娩室に入ってからは、なんだか朦朧とする感じもあるくらいで。顔色も悪かったらしく、その日の担当だった新人助産師さんが他の助産師さんに、「顔色悪いよ!?血圧測ってる!?」と言われ。バタバタした直後に産まれてきました。

もちろん産声はありません。産まれた瞬間、夫と決めていた娘の名前を、泣き叫ぶように呼んでいました。

亡くなっている我が子を見れないという方もいるようなので、気を遣ったのだとは思いますが、助産師さんに、お顔見る?と聞かれ、もちろん娘を抱っこしました。
後になって、お顔見る?って当たり前でしょう。何を言っているの。やっと会えた私たちの娘なのに、なんでそんなこと聞かれるんだと、なんだかとてもイラついてしまいました。

亡くなっていても、可愛い娘なのです。
亡くなっている体の為冷やしておかなければならないのはわかるけれど、保冷剤の板の上に置かれたトレーのようなものに、大きなおむつだけつけて置かれ。
娘を個室に連れてきてもらったり、私の診察等で出て行く前に預かってもらったりする際の、若い看護師さんのカートの押し方が、片手で押していたりとすごく雑で気になったり。

娘を守れなかった情けない人間ですが、ピリピリと神経質にはなりました。

娘は800g。発育不全等もなく、胎盤にも異常なく、強いていうなら臍の緒の一部が少し強くねじれているかな ということでした。
死産の際、明らかな原因がわからなければ、「臍帯過捻転疑い」とされるようですが、娘もそれでした。

入院中 産前産後のこと

産前産後、困ったこと

出産に向け、前処置や促進剤等準備が進む中やらなければならなかったのは、
産後娘に着せる服をネットで探すこと。
悲しいけれどすぐに必要になる、棺や骨壷などお別れの準備をすること。

急遽必要になり、親が準備しているはずもない、小さく産まれた赤ちゃんのための服は、病院には用意されていないことも多いようです。
産後、病室で一緒に過ごしましたが、亡くなった赤ちゃんの体を温めるわけにはいかない為、冷たいトレーに置かれ、その下には保冷剤。
服もなく、大きなおむつだけ当てられている状態でした。

生まれる前に、病室にミシンを持ち込んで服を縫っているような余裕はもちろんなく、何か良いものはないか急いでネット検索していました。

棺や骨壷についても同じです。急なことで、どんなものを用意したら良いか、分からないことだらけの中、ひとつひとつネット検索しながら揃えていくしかありません。
お産に向かっていく中、大切なものの準備を急いでしなければならないのは大変でしたし、心残りも出来かねません。

産後、嬉しかった対応

 上記のように、産後の娘の服の用意に困っていたところ、お腹の中で亡くなったり、産まれてすぐに亡くなった小さな赤ちゃんのための洋服を作り、提供されている自助団体がありました。
そちらにお願いし、娘のための洋服と帽子を送っていただくことができました。
(残念ながら現在は、個人への提供はされておらず、病院への提供をされているようです。)

お見送りの時に、ぴったりサイズの服を着せてあげられたことは、とても大きなことでした。
すぐには難しいですが、小さく生まれた赤ちゃんのための、服や小物のオンラインショップをするのが今の目標です。

 もう一つは、退院前、何度か師長さんが部屋にきてくれたこと。
胎児死亡に至るまでの話を聞いて、いろんな場面の色んな気持ちに共感してくれました。
また、娘に何かしてあげたいことはないか、数日でお別れになってしまうけれど、何か残せないか。
一緒に考えて動いてくださいました。

手形と足形を取ったり、娘用の小さな服が届いてからは一緒にお着替えをさせたり。

娘のために、私たちのためにと配慮してくださる言葉や態度がとても有り難かったです。

退院後

自宅で過ごした数日間

退院し、娘と一緒に自宅へ。お別れまで2日ほど家で一緒に過ごしました。

やっと会えた娘なのに、お別れまでの時間はごく限られていて、今出来ることはなんでもしたいと思いました。

家族3人、たくさん写真を撮ったり。川の字で寝たり。

母の味といえばお味噌汁かな、と味噌汁を作って、上澄を数滴お口に持って行ったり。

何も知らない人が聞いたら、何してるの…と変に思われてしまうかもしれないことも、親の気持ちとしてできることを全てやりました。

火葬 娘とお別れ

産まれて、やっと顔を見られた娘と、数日一緒に過ごしただけでもうお別れしなければなりません。

亡くなっていても、そこに娘がいて、一緒に過ごしているうちは、なんだか気力がありました。

娘がいるうちは、親でいようとすることができていたのかもしれません。

でも、いよいよお別れ。

私も夫も好きなお菓子を買いに行き、お空で食べられるようにと、棺に入れました。

棺には、お空で遊べるように、布製のおもちゃなども入れました。

やはり、顔を見られなくなってしまう、そこからいなくなってしまう というのはとても大きなことでした。
火葬場の駐車場につき、車の中で、この先は棺の蓋を開けないと決め、私も主人も最後のお別れをしました。
建物の中に入ってから、棺の蓋を開け閉めしていては、いよいよ送り出すという時の決心がつかないような気がして。それに、3人でゆっくりと落ち着いて最後のお別れがしたくて。

そして、火葬後の骨上げ。

ネットで探し、いのりオーケストラ というWebショップで、名入れをして購入した骨壷と遺骨ペンダントにお骨を納めました。

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